2023/06/01

フリマとまち

日曜にかすたねっとのテラスでフリマを開催した。天気にも恵まれ、おいしいパンとコーヒーにDJブースからはサマージャム95が流れていた。訪れた多くの人たちがあちこちで談笑する姿。僕もすごく楽しかった。
前日にフリマのフライヤー配りに商店街を歩いたら予想以上シャッター通りだった。残っていたのは少しの飲食店と外国人だった。なぜこんなことになったのか、これからどうなっていくのだろうか。僕らの身近なお店や街のことが気になった。

生活者調査によれば、ほとんどの人が商店街はなくならい方が良いと考えているのに、買い物に関してはスーパーがあれば商店街はいらないとい回答が多数派を占めているそうだ。賑わいやコミュニティの面からは商店街の存続を強く願いつつも、消費者としてモノを買う立場からは商店街は選ばない、という姿は多くの人々に広く見られる一般的な態度ということ。多くの人たちが複数の感情が入り混じったモヤモヤ感を抱いていると言えそうです。

(なぜということに関して)
 歴史的に位置付ければ、商店街政策は2000年を境に大きな転換を迎えることになり大店法廃止後、いわゆるまちづくり三法のもとで商店街の振興に取り組んできた。
98年まちづくり三法の施行によって、法律の目的からも商業等の活性化の文言が消え、地方都市の都市機能の増進と経済活力の向上に向けた中心市街地の整備を明確にした。そこでは中小小売商をまちづくり、すなわちコミュニティ形成の担い手として位置付ける形で、商店街の活性化を図ろうとしてきました。
実際、練馬駅周辺の商店の変貌も00年をターニングポイントにしている。00年の大江戸線全線開通に合わせて西口が開設されてエキナカの西友が開業した。01年は食品スーパーのあまいけが開店し、04年は同じく食品スーパーオオゼキが開店した。その後08年副都心線が全線開通すると、10年にドラックストアのパパスやセブンイレブンが、12年は都市型小型食品スーパーのまいばすけっとが開店した。そして13年に東急東横線が乗り入れると、14年にココネリが開業してユニクロやライフが開店した。

こうしたスーパーやコンビニの出店と様々な形で対抗してきたのが商店街でした。しかし今では多くの商店街がシャッター通りとなっている。弁天通りは2007年から10年間で商店数がほぼ半減しています。土地売却による住宅化や駐車場化を除いた2021年の空き店舗率は40%程でその半分はシャッターを下ろしたまま居住している。
かつての身近な小売店は、日本の消費者の生鮮品に対する鮮度への強いこだわりで、その日に調理するための食材を毎日買い物へ出掛けて買ってくるという消費パターンに対して、お店が近くにあることは重要視されました。商店街の柔軟な対応力は、夫婦で商店を支える妻の役割が商店主婦という呼び名とともに60年代以降はクローズアップされました。81年の小売商店の調査では家族のみで営まれるものが全体の8割に上り、従業者は夫と妻の二人というものが最も多く、同時に8割強の商店は同一敷地内に店舗と住居が兼ぞんしている職住一体型の特徴を持っていました。
その結果、商売をリタイアした店舗の新陳代謝が進まないことにつながっているらしい。

(どうなっていくのかに関して)
生活者の商店街に対するモヤモヤ感を理解するのに、NYの都市社会学者のシャロン・ズーキン氏が示したオーセンティシティが核心をついていると僕は思っています。真正性と訳されるが、「らしさ」や「ぽさ」のこと。言ってみれば街の記憶と感情の風景といったものが、どう成り立っているのかを説明します。
「オーセンティシティは二つの意味から成り立っている。一つは初期の由来や変容に基づく場所のオリジナリティという観点。もう一つは個人や組織の相互作用によってもたらされる社会的正当性という観点。前者は個人の主観で捉えられ日々の生活と労働の継続によって形成される体験によって作られる。後者は有力企業や大規模利権者中心の不平等なパートナーシップが個人の関係構築を遥かに超えた領域をつくりだし、空間を支配する新たな論理を生み出す。こうして社会的コントロールの不均衡は進む。都市の転機はこうした二面性を持つ見えざる領域や力をめぐる新しい戦いの始まり。」
別の言い方でこうも言っています。
「由来と新しいはじまりの間の緊張関係。由来とは、ジェイコブズの適正スケールとコミュニティから個人の感覚で捉えた日々の生活と労働の継続によって形成される体験。オーセンティシティの再構築は歴史によって作り上げられた美意識と新しい始まりという社会的観点との関係を再構築し新たなイメージを作り上げる。新しいはじまりは、アーティストや文化人、市民活動家などがフロンティアとして拓いたまちの新しい価値がそれを取り上げるメディアを媒介としてフォロワーである消費者に対して気付きを与え、やがてその循環の輪に企業や行政、非営利組織などが加わり対立や協調を繰り返し、特定の方向にイニシアチブを生み出すことによって、融合的ジェントリフィケーションと呼ぶような新たな土壌をつくりだしていく。」(都市はなぜ魂を失ったか シャロン・ズーキン 訳内田奈芳美・真野洋介 2013 講談社)

 (なぜフリマなのか。)
 加えて、ズーキン氏はインタビューでフリマやファーマーズマーケットやコミニティガーデンが文化的に重要とされるのは場所のアイデンティティをつくっているからだと言います。対照的にスターバックスはそれを弱めると言います。同じものを販売するのにどこに違いがあるのか。それは売り手の個性とあり方にあります。売り手と買い手の間の直接的で身体的な関係性と、スターバックスのような店はオーナーと店主が別の人で、建物の所有もまた違う人です。
 そうした考えは経済的なアントレプレナーであるだけでなく、文化的なアントレプレナーであることが重要になる。個性的なビジネスを始める人達は自分達がアイデンティティを共有する文化的なサービスを文化的なコミュニティに提供したいと考えている。
 その上で、都市は多様性を失っていると言います。つまり違いに対しての忍耐力です。高いものや低いもの金持ちと貧乏人を統合する能力を失っている。小さなビジネスや地元のオーナー、そういうものを我々は失っていると。

 僕はズーキン氏の言ったことを思い浮かべながら、未来を創り出すことを担う人材をどのように集めていくのか、簡単ではないが全くお手上げでもないんじゃないかと思い始めていた。